1987年 5月
お参り

  「お参り」というのがたいへん好きな日本人が多い。上は一年に何百万人も訪れるというお寺や神社から、 村のはずれにひっそりと風雪に耐えている小さな神社まで、立寄っては両手を合わせ祈願成就をお願い する。お寺にいって拍手を打ったり、神社で南無阿弥陀仏と唱えたりお寺だろうが神社だろうが一向に 気にしない。お参りをすれば必ず祈願成就すると信じている人はそんなに多くはないだろう。なんとな くの習慣だし、神仏の前で自らの決意を表明することによって安心するという人も多いに違いない。

  起きてしまった出来事に対する評価の仕方には二通りがある。たとえばなにかに失敗した場合、どうし てこんなことになってしまったのかと考え、悩み落込むタイプと、いや、これぐらいで済んだのだから 不幸中の幸いとしなければならないと考えるタイプである。お参りによって、神や仏のご加護があった かどうかは定かではないが、あったからこれぐらいで済んだと考えたほうが暮らしやすいということか。

  気忙しいという言葉がぴったりの現代社会だ。神や仏の議論はさておき、じっくりと物事を考える時間 を作りたいものだ。お参りの習慣とは止まることのない時間の流れに、押し流されないような暮ら しのゆとりを持ちたいという心情の現れではないかと考える。村のはずれの小さな神社などで、春をつ げる野の花をじっくり見ていたりすると、いままで見えなかった視点がふっとみひらくこともある。


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