「そんなに言うんなら自分でやれば!」とか「何よ自分だって何々しているくせに!」という言い方を
よく耳にする。親子や夫婦の間でもそうだし、最近では、先生と生徒の間ですらこういう言葉が出て
くるらしい。先生が子供たちに対して「自分たちの学校なんだから、きれいに掃除しなさい」と言え
ば、「そんなに言うんなら自分でやれば」という具合である。何から何まで同じであることが平等で
あるという平等観が、こうした言い方につながっているのではないだろうか。
自由・平等・博愛というスローガンのもとに戦われたフランス革命はあまりにも有名だが、この平等
ということについて考えてみたい。革命当時のフランス社会は絶対王政と封建的な旧制度のもとにあ
り、人間同士が差別された社会に対する怒りが平等のスローガンとなったものであろう。そして現代
民主主義は平等であることを柱としており、社会的差別に対する平等の主張は正義の主張であること
は言うまでもない。
社会的レベルの平等観が拡大解釈されて、日常の生活の中でさまざまな悪平等がつくりだされてはい
ないだろうかと時々考えさせられる。人にはそれぞれの立場がある。親には親の、子には子の、そし
て先生、生徒というそれぞれの立場。立場の違いを越えてすべて同じであることは悪平等以外の何も
のでもない。日常の生活の中では、同じであるということよりも、お互いの立場の違いを理解し合う
「おもいやり」が欲しいものである。