苗というのは正直なものである。植えられたまま動きもせず、もくもくとその根を広げている。横一
線に糸を張り、その線にそって手で植えた昔の田植えなら、まさにまっ直な植跡で、根が息付くころ
には整然とした見事な姿をみせていた。今の田植えはほとんどが田植機によるものだ。この機械、目
の前で苗を乗せた台がカチャカチャ左右に動くものだから、なかなか扱いずらい。まっ直に植えよう
と思いながらも「おい、勝手にどこへ行くんだ」とついどなりたくなる程よく曲がる。
「何も苗の列が曲がったからといって、曲がった米ができるわけでもない」と言うのがよく曲がる人の弁である。
もちろん多少曲がっても、収量に影響するほどのこともないのであろうが、そこには何かまっ直を美
観と感じるほどの「直を愛する心情」がある。
最近あまり使われなくなったが、「竹を割ったような性格の人だ」という人物評は昔から言われてい
る褒め言葉である。竹はその繊維構造から割ったときまっ直にさける。このまっ直というのが評価の
源泉となっているのだろう。人の心には素直さ、正直さなどの資質を愛する「直の思想」ともいうべ
きものがあるのではないだろうか。
価値感の多様化が叫ばれ、どこから見てまっ直かなどと議論される昨今である。多様な考え方という
のは民主主義という点では好ましい側面もあるだろうが、曲がったことの嫌いな、素直で正直であると
いう「直」を生活の原点としたいものである。