「本音と建前」という言葉が日常茶飯に使われている。本音というのは本心からの言葉という意味だし、建前と
いうのは家を建てるとき、棟上げまで終えた、骨格のでき上がった状態をいうもので、意味としては「原則」と
いうようなものだろう。この二つの言葉を連ねて使う場合、我々は明らかに反義語として、使っているわけだか
ら、本音というのはどうも原則から、逸脱したところにあるらしい。一般的に言えば、それは理性と感情の対立
であったり、理想と現実の対立であったりするのだろう。
人間はいわば社会生活をしているわけだからたくさんの人とのふれあいの中で生きている。そして組織というも
のが生まれ、個人と組織が社会をつくっている。個人個人が固有の意志を持っているように、組織には組織の意
志がある。個人や組織を問わず、意志には往々にして本音と建前があるものだ。
農協という組織は、言うまでもなく協同の力によって、組合員の社会的地位の向上をはかるべく事業を展開して
いる非営利法人だ。しかし、こうした原則が、建前として割り切られてしまってはいないだろうかと考えさせら
れる。本音としての部分では、こうした主義、思想よりも、まず経営の安定を図らなければという意志が強く作
用しているのではなかろうか。理想を忘れることなく、現実的政策を提起していくことは困難な仕事なのだ。個
人にとっても、組織の中では建前で生き、家庭や、うちとけた仲間の間では本音の出る場合が多いだろう。
社会という大きなつながりの中で、個人や組織がそれぞれの意志を持って生きている。そこで本音と建前をはっ
きり使い分ける人や組織というものは、どうしてもその二面性ゆえに信頼や安心といった感情の生まれにくいも
のだ。個人としても社会人としても建前が本音であるような生活をしたいものだと願いたい。