年が明けて間もない1月25日の朝、86歳で父が逝った。時代が「昭和」となって3ヶ月、昭和2年の3月に生を受けた父は、 まさに激動の時代を生き抜いた人であった。次男坊であった父は高等小学校を出てすぐに日立製作所に勤め、昼、働きながら夜、学ぶという 生活を送っていたが、先の大戦で日立の街が「艦砲射撃」で破壊され、命からがら逃げ帰って来たという。そして、終戦間際、霞が浦航空隊 に志願入隊、もう少し戦争が長かったらおそらく「特攻」でお国の為に散って逝ったかも知れない。昭和20年の終戦時は18歳であった。
終戦直後の食糧難の時代、これから生きていくのには農業しかないということで、24歳の時、農家である秋田家の婿となった。当時はトラクター や耕運機などの農業機械は一切なく、農耕に馬を利用する他は一切手作業の時代である。以来、半世紀以上50数年にわたって農業(米づくり) に取り組んできた一生であった。40歳ぐらいの頃、農業にも機械化の波が押し寄せ、農業は大変な合理化を遂げた。時代は高度経済成長時代となり 現金収入を得るため出稼ぎ労働者となって建設作業に20年余りの時を過ごし家を支えた。ただ、この出稼ぎで都会の空気に触れられたことは楽しい ことが多かったと生前語っていた。
秋田春雄、婿となって性が秋田となったためこの名前になったのだが、秋の田んぼに春の男(雄)まさに名は体を現すではないが、農業に 取り組んできた人間にピッタリの名前であった。80歳までは現役で農業を続けるつもりでいたようだが、79歳の時で雪が降り積もった朝、 玄関先で転んで大腿骨骨折で入院、以後リハビリの生活を余儀なくされてきた。あと1年と2月で88歳米寿の年である。50数年にわたって米づくり に取り組んできた父だけに、米寿に逝ければ天命だと思っていた。85歳まで酒を飲み、亡くなる3ヶ月前まで元気にデイサービスに通っていたので、 まだまだ先の事かと思っていたが、燃え尽きたのだろうと思う、死因は「老衰」であった。